刑法と人間観
刑法は人のおこなう行為に対して、犯罪や刑罰を定めたものです。そのため、人という存在をどのようにみるのか、つまり人間観についても考える必要があるのです。
前期古典派のフォイエルバッハは、人間と理性的な存在であるとし、人間の理性に働きかけることで、犯罪を抑止するという「心理強制説」を唱えたのです。後期古典派は、理性的人間観に立つという点では同じなのですが、そのうえで人間は自由意思の主体であるという見地を強調しました。犯罪は人間の自由な意思によって行った行為であるので、当然にその責任を問うことができ、それに対する応報的措置が刑法であると考えたのです。
古典派刑法学が理性的人間観の立場をとっていましたが、近代派刑法学は異なる立場に立ちます。近代派はすべての存在は法則に従うとして、人間の行動も例外ではなく法則に従って必然的に生じるものであるとする科学的人間観の立場をとり、人の自由意思を否定しています。そのため、刑罰は危険な犯罪者という存在から社会を防衛するための手段であるという社会防衛論が展開したのです。
その後、古典派の理性的人間観は少し変化し近代派の主張の一部を受け入れて想定的自由意思論が主流となります。この考えは、現実の人間を見たとき、何にも制約を受けず、すべてにおいて自由に考え行動できる人間はいないと考え、人間には素質や環境という要因によって決定されている部分もあるとする一方で自由に決定できる部分も残されており、自由に決定した部分については責任を問うことのできるとうものです。
近代派の人は運命の操り人形のようにとらえていた意思決定論にも変化が現れます。具体的には機能主義の立場から、自由かそうでないのかということは「決定されているのか、いないのか」ではなく「何に決定されているか」によるものとしています。つまり他人あるいは人の生理的なものによって決定されて行動するのではなく、自己の規範意識に従って行動するような場合であれば、たとえそれが素質や環境によって法則的に形成されていったものであったとしても、その人自身によって行われた決定であるとする「やわらかな決定論」も有力なものとなっています。
現在は、自由意思の証明は不可能であるけれど、人の尊厳を基本とする法制度では人間に自己決定の自由があることを前提としたものであることから、自由意思というのは規範的要請であるという規範的自由意思論や自由意思があろうとなかろうと国民の規範意識や予防目的から刑罰を基礎づけることができるとする自由意思不要論といった説もあります。