刑罰を用いるとしても
謙抑主義というのは、刑罰というのはあくまで最終手段として用いられるものであり、それを用いることが必要不可欠である場合以外使用してはならないという原則です。
刑罰はその性質上、どうしても、禁固・懲役・拘留というように人の自由を制限したり、罰金や課料といったように財産へ損失を与えたり、場合によっては死刑のように生命すら奪うような制裁手段です。個人の人権に対し大きな制限をかけるだけでなく、裁判所への出廷や、メディア報道、前科者というラベリングによる本人や家族への影響など、それ以外の面でもさまざまな負担をもたらします。刑罰が「副作用の大きい劇薬」といわれる所以はここにあるといえます。
刑罰はいわば、必要悪をいえるもので、使わずに済ませる手段があるのであれば使わずに済ませたほうがいいのもだといえます。もし、刑罰を用いなくても、代替手段として社会的制裁や民事的あるいは行政的な制裁を科すことで十分である場合なら刑罰を用いることのない制裁を行うべきであり、どうしても刑罰でなければ十分な処罰を行うことができないという場合に限って刑罰を用いることが許されるという原則が謙抑主義の原則なのです。
この「謙抑主義」という言葉は、1930年代に宮本英脩が初めて用いた言葉です。ただし、この謙抑主義という考え方自体は、古くから存在します。ローマ法では「法官は些事を取り上げず」という法格言がありますし、漢の高祖の「法三章」という故事もあります。これは、漢のひとつ前の秦の時代、始皇帝が刑罰を多用した点を改めて、刑法を殺人、傷害、窃盗の三章にとどめて、刑政を行ったというものです。これらの思想が、日本に渡り受け継がれ、謙抑主義の源流となったといわれています。但しこれらは憲法原理として謙抑を要求したものではなく、為政者や裁判官に対する教訓的な存在でしかありませんでした。
憲法原理としての謙抑主義は、フランス人権宣言8条から求めることができます。8条では「法律は、厳格かつ明白に必要な刑罰で定めなければならない」と示しており「厳格かつ明白に必要な刑罰」以外は人権侵害なることを制限しているのです。
謙抑主義の根拠は、刑罰とは使わずに済むのであれば使うべきではないもの、つまり使いたくはないけれど使わなければならないものであるから、積極的に多用するべきではなく、謙抑的に使用しなければならないというところにあります。